防災・減災への指針 一人一話

2013年12月03日
子どもたちの命を守る
多賀城市 桜木花園幼稚園園長
鎌田 順子さん

災害への備え

(聞き手)
 東日本大震災以前に、災害に遭われた経験はございますか。

(鎌田様)
私は水害を3回ほど経験しています。一番大変だったのは自宅が浸水して、胸の辺りまで水がきた時でした。戸を閉めていれば大丈夫だと思っていたのですが、全く無駄でした。その経験から水害対策として、以前より1メートル高く自宅を建て直しました。
その後、2度ほど水害があったのですが、1メートル高く嵩上げしていたので、自宅への被害はありませんでした。
しかし、幼稚園はそのような対策をしていなかったので、全ての水害に遭い、ボイラーなども使い物にならなくなってしまいました。
その後、市の対策で、雨水排水ポンプが強化され、大雨が降っても浸水しなくなっていましたので、安心しきっていました。
もちろん、津波のことなど一切頭にありませんでしたし、地震で少々物が倒れたとしても、怪我をするほどのことではないだろうと思っていました。
私が子供の時、塩釜に津波が来たと言う話は聞いていましたが、正直他人事のように思っていましたし、多賀城に津波が来るとは全然考えていませんでしたので、何も備えていませんでした。

(聞き手)
震災前に、幼稚園避難訓練などはしていましたか。

(鎌田様)
地震と火災の避難訓練は年に2度行っていました。保護者の方にも、いざという時のために試験メールを送るなど、徹底していたつもりでしたが、東日本大震災の発災時は連絡が取れないことの大変さをものすごく感じました。
やはり実際に起きた時に利用できないと意味がないので、その後は、災害ダイヤルや伝言ダイヤルを使い、必ず繋がるようにしています。

(聞き手)
備蓄はしていましたか。

(鎌田様)
震災前は備えていませんでした。
近所の皆さんが幼稚園に避難してきたのですが、避難所ではないので備蓄はしていませんでした。
私は2階から屋根をつたって、隣接している自宅まで何度も往復し、衣類や布団を持って来ました。避難して来た方は、ラジオや水を持っていましたので、何が起きたのかを、ラジオから知る事はできました。
水を持参された方は、ペットボトルに直に口を付けて飲んでいらっしゃったので、分けてもらう訳にはいきませんでした。我慢している子ども達の目に触れないように配慮をしたことが、今なお記憶に残っています。
幼稚園には業務用と家庭用の冷蔵庫が2台あり、後者には、先生方の私物のジュースなどがありました。明け方、それに気が付いた先生が、冷蔵庫をたぐり寄せ、飲み物を取り出しました。それを園児の工作用にとっておいたプリンの空カップに注いで渡しました。
その時、大人は50人くらいましたが、最初は子どもからお願いしますと言って配りました。やっと子どもたちが飲めると思って、心からホッとしました。
震災当日の夜中には、3人の自衛隊の方がボートに乗って来ていたのですが、周りにもっと大変な人たちがいるからと、行ってしまいました。
しかし、その時の自衛隊の方が手配して下さったと思われるおにぎりが明け方に届き、何とか飢えを凌ぐことができました。

(聞き手)
近所の方が避難所として避難されて来たことは、想定外だったのではありませんか。

(鎌田様)
地区集会所が避難所になっていたのですが、鍵が開いていなかったため、皆さんこちらに避難してきました。平屋の集会場に避難されていたならば、犠牲者がでたかもしれません。

(聞き手)
幼稚園の建物自体もかなり大きく揺れたのではないでしょうか。

(鎌田様)
私は、揺れが来た時は市役所にいましたので、実際には見ていませんが、相当揺れたので混乱したようでした。

想定外に備える必要

(聞き手)
その時点で津波が来るという予感はございましたか。

(鎌田様)
津波は全く意識していませんでした。というのも、サイレンも何も鳴らなかったので、地震が収まって子どもたちをなだめるので手一杯だったのです。
桜木南区の区長さんは、自分ので避難を呼びかけて回っていたそうで、そのお陰で助かったという人もいます。
状況を把握できないこともありますから、知らせることは大事だと思いました。
多賀城は海とは無関係のまちのように見えますが、少し高いところに上がってみるとすぐ海が見えます。周辺は意外と平坦な土地で、で行ける高いところはあまりありません。
震災後は震災マニュアルや防災対策をたて、保護者の方と共通理解に努めています。
残念なことに、園児が3名亡くなっています。その中の1人はお母さんと妹さんと一緒に、七ヶ浜にある実家が心配で、そこに行く途中で被害に遇ってしまいました。
市役所だけを責められませんが、サイレンが鳴れば、住民は尋常ではない事態だと感じ、正しい情報を得るように努め、避難できたと思います。
しかし、以前、津波警報が出た時、警戒を呼びかけたにもかかわらず津波が来なかったということがありましたので、どこかで疑ってしまい、それが裏目に出てしまったかも知れません。
私たちにも責任はありますが、行政も想定外のことを考えておくべきだったのではないかと思います。志半ばにすら届いていない、大切な幼い命が失われたことは、どんなに周りが復旧・復興しても、人が増えて活気を取り戻したとしても、大きな悲しみのままであり、生涯消えないと思います。

(聞き手)
鎌田様は発災時に市役所にいて、揺れと同時に行動したそうですが、すぐに幼稚園に戻ることができたのでしょうか。

(鎌田様)
周りの人は電柱などにしがみついていましたが、私はすぐに戻らないといけないと思いました。園に着くと、みんな外に避難していました。雪が降っていて寒かったので、幼稚園バスの中に入りました。その時、保護者の方と電話で話していた先生が、そこで初めて津波が来ているということを聞きました。早く逃げたほうがいいと言われましたが、その時ラジオで聞いていた津波到達時刻から40分も過ぎていました。
しかし、10メートルの大津波が来ると言われても、ここまでは来ないだろうと思っていましたし、第1波、第2波、第3波と聞いても、その当時は、津波がだんだん大きくなって威力が増幅するという知識もなかったので、ただ混乱していました。
その時、うっすらと津波が見えたので2階ホールに避難しました。一足遅かったら危なかったかもしれません。その後、瞬く間に水位が上がり、どこで水の勢いが止まるのか不安でした。

率先して行った避難住民のお世話

(聞き手)
 何人くらいの方が避難してきたのでしょうか。

(鎌田様)
2階ホールの避難場所には、160人くらいいたと思います。ほとんどの園児は帰宅していましたが、ちょうど課外学習で体操教室をしていたので子どもとその保護者の方もたくさんいました。
その他に、預かり保育の子ども10人くらいと近隣の方50人というのが主な方たちです。ホールは比較的暖かかったのですが、先生達は寒いと言っている人にはカーテンや段ボールを巻いたり、お年寄りの背中をさすってあげていたりしていました。
場所が違えば私たちも誰かに頼って甘えられたのかもしれませんが、自分たちの幼稚園でしたので、私たちが率先して皆さんを安心させてあげなければいけないと思っていました。困ったのは、2階にトイレがなかったことでした。

(聞き手)
翌日、救助はどのような順番で行われましたか。

(鎌田様)
避難してきた住民の方の中には、人工透析している方、椅子の方もいて、翌日、そのような方が優先でボートに救助されました。
私は、本当でしたら、幼稚園の子どもたちを一番早く、救助ボートに乗せてあげたいという気持ちがありました。
しかし、弱者の方、乳児、熱のある子どもを優先的に救出してもらいました。
私はみんなの無事を確認し、一番最後のボートで救助されました。

自分の身を守る事の徹底

(聞き手)
 震災時に、特に重要なことは何だとお考えですか。

(鎌田様)
やはり、保護者の方と連絡を取り合うことと、避難経路を決めて、あらゆる災害と状況を想定した訓練をしておくことです。先生たちが近くにいない場合もあれば、バスに乗っている時に起きる場合があるかもしれません。
子どもたちにも先生の真剣な姿を見せて、何か起きた場合にきちんと対処できるように徹底しています。
保護者の方には、お子さんを必ず守りますので、まずは、ご自分の身を守って下さいということを伝えています。

市民と市職員が一つになって

(聞き手)
 この先、多賀城市が復旧・復興していくにあたって、何か意見や考えはございますか。

(鎌田様)
市が、地元の被災した商店の再建に支援することができればいいなと思います。
みんなが足を運びやすい目立つ場所に復興店舗を作り、被災地の人が頑張れる地域を目指していければいいと考えています。
例えば、市で税金を優遇し、地域力を取り戻す手伝いをしてもらいたいです。
多賀城駅の中に食堂ができ、評判を集めています。駅の食堂など、本来どこにでもある施設だと思うのですが、それが評判になるくらいに、多賀城駅周辺には集客施設がないのです。
まだ復興の方向性は見えていませんが、ショッピングモールや飲食街といった、地域に密着する商店街を復興してもらいたいです。
今のままでは、買い物が不便だというだけでなく、活気がありませんので、多賀城駅周辺に魅力ある施設や大型店を誘致して頂きたいです。

(聞き手)
住みやすい生活圏を作るということですね。多賀城市は歴史のまちとも言われますが、どうすれば、人を呼び込めると思いますか。

(鎌田様)
目で見る事ができて、初めて興味が湧くという事が多々ありますから、多賀城跡復元や観光施設などの外観を整え、多賀城市の魅力ある名産品をもっと作り、PRして計画を進めて頂きたいと思います。
昨今は少子高齢化が叫ばれていますが、ここから比較的近い天真小学校も子どもが少なくなってきています。
震災を機に、市職員の皆さんには、多賀城市に一人でも多くの市民が増え、繁栄できるようにと考えて欲しいです。
どのようなことも、自身の身になって真剣に取り組んで下さるように心から願っています。住民、市職員一丸となって、多賀城市をもっともっと愛したいです。